昨日のこと。
よく晴れた一日を上野の森で過ごした。
会期終了直前にやっと観られた展覧会、ふたつ。
私にとってターナーといえばテート美術館であり、テムズ川を進むテート トゥ テートの船上から眺めたロンドンの景色そのものだった。
どこの美術館で観ても、ターナーの絵はこの記憶に直結する。そんな固定的な印象を揺さぶられた「ターナー展」だった。
よく観ればターナーは、イタリアも描きフランスも描いている。作中にたくさんの人物も描いていた。
人物像はどれも戯画化したようなシンプルな実線で目・鼻・口が描き込まれている。
実在のラファエロまで登場する絵もあって、その表情も軽妙である。
おもしろかった。
習作や、スケッチ、もとは一枚の大きな紙の数カ所に描かれたものを一点ずつに額装したという水彩画、三点の異時同図になっている海の絵、強い光の絵、夜の月の絵、様々な瞬間や光景やイメージの作品が並び、晩年にむけ次第に抽象度を増していく画風とか、船のマストに自らを括り付け荒海に出て、生きて帰れたらこの海の絵を描くと語ったというエピソードなどに触れるうちに、「ターナー」はみるみるうちに厚みのある人間の画家としてその存在が感じられるようになった。
漱石が観たであろうとされる一点も観ることができた。「坊っちゃん」で赤シャツが名付ける「ターナー島」の由来とされるこの作品のことは、今年観た「漱石展」で紹介されていた、その実物の前に立つことができた。
最後に壁に掛けられていた作品は、これから何かの風景に仕上げられていく過程の下塗りとも言われているというが、それでもすでにこの画家の目指した境地を写しとったものに思われた。
ターナー、おもしろかった。
そしてやっぱり、ロンドンに、テムズ川とかウォータールーのあたりに行きたくなった。
冬枯れた冷たくて淋しい季節の夕暮れ時がいいなと思った。
ターナーを観たあと別にこなしたい用事もあったが、上野の森の紅葉があまりにも気持ちがよく、黄色に輝く銀杏の巨木を眺めながら散歩がしたくなって、結局東博まで行ってきた。
今週で会議終了となる「京都展」、洛中洛外図舟木本や、4Kの映像で再現される龍安寺石庭の四季など、やっぱり観ておこうと思ったので。
洛中洛外図の楽しいことといったら、「飽くまで眺める」ためにはどれくらいこの屏風の前に立っていたらいいものやら。
貫徹されたセンスに完璧にコントロールされたこの大きな絵、絵師はどれほどか楽しかったことだろう。
いくつも並ぶ洛中洛外図を辿り歩きつつ、龍安寺の石庭の四季へと招かれ、二条城の障壁画へと進んでいく。
圧倒された。
胡粉が混ぜられた顔料により隆起する桜の花々は、これらの絵が元に置かれた場所にあっては、天井からの照明ではなく床に置かれた灯火にちらちらと照らされて、きっと揺らめいて輝いていたに違いない。
そんな夢幻の想像の中で、「美術」の力を体いっぱいに浴びたような気がする。
こういうものを観逃すというのは怠慢だ、とつくづくと思った。
私は今まで、どれだけの怠慢をおかしてきたことだろうか、とも。
東博、平成館から出ると、ちょうど日が落ちる時刻だった。
見上げた空は、ターナーの絵のようだった。

